石峰寺 若冲五百羅漢 (石峯寺)
場所:京都府伏見区深草石峰寺山町26
石峯寺(せきほうじ)は京都市伏見区にある寺院。宗旨は黄檗宗、山号は百丈山(ひゃくじょうざん)、本尊は釈迦如来。
1713年、黄檗山大本山萬福寺の第6世千呆性案が開創した。
石峯寺は平安時代中期に摂津国多田郷に建てられた沙羅連山石峰寺に発するという。
兵火に遭い、寺は焼亡したが、本尊の薬師如来像は土中から慶長元年(1596年)に発見され、
京都五条橋東あたりの祠に祀られていた。この薬師如来を尊崇する千呆和尚が、いまの深草の地に移したという。
その後2度の本堂焼失により現在は釈迦如来になっている。なお寺号の表記は、石峯寺、石峰寺ともに用いる。
寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、絵師の伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、
当時は1000体以上あったとされるが、今は400数十体である。
この五百羅漢は「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。
また観音堂の格天井に若冲が天井画も描いが、これらの絵は処分され、いまは他寺に現存している。
若冲は1800年9月10日、85歳の生涯を石峰寺門前の自宅で閉じ、同寺に葬られた。
当寺には若冲の墓があり、毎年9月10日に若冲忌を営んでいる。
奇想の画家と言われ、生写を得意としていた絵師の伊藤若冲が下絵を描いたとは到底思えぬ、
この若冲五百羅漢であるが、若冲の人生に目を向けると、なんとなくだが私の心に伝わってくるものがある。
若冲は青物問屋の長男の生まれで、父の死により若くして家督を継いでおり、比較的に裕福な日々を送っていたようだ。
商売にはあまり熱心ではなかったようで、家業を平気でほっぽり投げたりしている。
そもそも絵師である彼は、感性からして商売には向いていないのは当然であるが。
また、酒も飲まない、遊びもしない、嫁も娶らないと、ココだけ聞くと真面目な人間に聞こえるが、
絵を描くこと意外は興味が無いだけで、実際はかなりわがままな人物であったのだろう。まあしかし、良い悪いは別として、
芸術家としては恵まれた環境にいたのはたしかなようである。
それが40歳を向かえ家督を弟に譲り、絵師として専念するわけだが、
若冲は動植物などを好んでたくさん書いている一方で、人物画などはほとんど描いていない。
唯一何度も描いているのが尊敬していた売茶翁の肖像画だけである。
しかしそれは、若冲が新境地に辿り着いた瞬間でもある。
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