Sample Site

八王子城跡


場所:東京都八王子市元八王子町

後北条氏の三代目、氏康の次男、北条氏照が築いた山城。 1571年頃より築城し、1587年頃に本拠とした。

氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国の武田信玄軍に攻められ、 その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。

1590年7月24日小田原の役の一環として、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった 上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。八王子城合戦である。

当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、将兵の他、 領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠っていた。

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、 力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、 その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。

氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。 城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。 下級家臣の中には落城後に降伏したものも多く、一部家臣の子孫などが城下に豊臣勢の家臣として召し抱えられている。

八王子城攻防戦を含む、この小田原の役において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。 その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

1951年、国の史跡に指定され、発掘調査や整備も進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元されている。 しかし曳橋は、橋脚の部分しか資料が発見されていないために、橋脚以外の部分は復元工事の担当者の推定で建てたものである。

居館地区など、重機が入り易いエリアの発掘調査や復元作業は進んでいるが、 城山要害部については樹木の伐採も一部を除いてはほとんど行われていない。 2006年、日本100名城に選定された。









■次ページ ■もどる

inserted by FC2 system